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日本後紀・船の記録

by taeshik.kim 2018. 3. 27.
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日本後紀・船の記録

日本後紀에서 船에 関한 記述과 朝鮮半島와의 往来에 関한 記述을 抽出한다. 平安時代 船を研究하기 위한 資料収集이 목적이다. 日本後紀는 吉川弘文館 新訂増補国史大系日本後紀에 의한다. 逸文에 대해서는 講談社学術文庫・森田悌の日本後紀(上、中、下) 를 따랐다.

 

巻四 桓武天皇

延暦 14年(795) 11月 3日, 出羽国이 申했다. “渤海国使 呂定琳 等 68人이 夷地志理波村에 漂着했다”

延暦 15年(796) 4月 27日, 渤海国이 使를 遣하여 方物을 献上했다. 【渤海国王 大欽茂의 죽음을 전해왔다】

同年 5月17日, 渤海国使 呂定琳 等이 帰国することになった. 正六位上인 上野介御長真人広岳과 正六位上인 行式部大録桑原公秋成 等에게 渤海国使 等을 따라가게 했다.【天平勝宝より以前にもたらされた数度の渤海国王の啓は文体が整い、言葉遣いも礼儀に適っていたが、지금 定琳이 提出한 啓는 前後がきちんとしておらず、従来のあり方に反している、として、「国と国が交わるにあたっては礼と敬を何よりも重んじる必要があり、これに背くようであれば、往来する必要はない. ただ、今回は、定琳等が辺境の夷地に漂着して略奪され、わずかに命だけが助かった苦難を思うと、心中に哀れみの気持ちが生じてくるので、手厚く賞物を与え、十分に手当てした上で帰国させる」としたためた璽書を渡している.】

 

巻五 桓武天皇

同年 10月 2日 正六位上인 上野介御長真人広岳 等이 渤海国에서 돌아왔다. 【渤海国王よりの返書에는 当国에는 大船의 建造가 可能한 巨木이 없어 小船을 使用하자면 遭難의 우려가 있고、通行이 困難해 使い人은 20人 以下로 하고 朝貢 間隔도 伸ばしてほしい、旨書かれていた.

 

巻七 桓武天皇

延暦 17年(798) 4月 15日, 天皇이 勅했다. 「西方のインドでおこった仏教は東方の日本に伝わり、暗やみを照らす松明のごとく人を導き、船の楫のごとくありがたい教えである. 云々」

同年 4月 24日, 下従五位の下のく内蔵宿祢賀茂麻呂を遣渤海使に任じ、正六位上の御使宿祢今嗣を判官に任じた.

同年 5月 19日, 遣渤海国使内蔵宿祢賀茂等が天皇に出発の拝謁した. 【持たした璽書の内容は、以前は傲慢な書状を差し出したために冷遇し、注意をしたことがあったが、今回の対応は礼儀正しく、朝貢の間隔をどうしたらよいかと判断を仰いだことは深く良しとする、間隔は6年でよいのではないか、と言うものであった. 】

同年 12月27日, 渤海国が使いを遣わして宝物を朝貢してきた. 渤海国王の書状は、【日本と渤海の間には天に繋がるような広大な海が陽光の下にあり、際限なく隔たっています. それにもかかわらず、渤海国使は東南の風を受けて北方の港を目指し来航し西北の渤海国が満ち足りているようすを視察しました. 云々】

 

巻八 桓武天皇

 

延暦 18年(799) 正月 元旦, 皇帝가 大極殿에 납시어 朝賀를 받았다. 九品 以上 文武官과 蕃客(渤海国使) 등이 席に着き、四拝를 二拝로 하고 拍手를 쳤다. 渤海国使가 参列していたからである.

同年 4月 15日, 渤海国使인 大昌泰 等이 帰国하게 되어 式部少録 正六位上인 滋野宿祢船白을 送使했다.

同年 4月 16日, 正六位上の大伴宿祢峰麻呂を遣新羅使に、正六位上の上林忌寸真継を録事に任命した.

同年 5月13日, 前の遣渤海使の従五位の下の内蔵宿祢賀茂麻呂が申す. 「帰郷の日、海は夜で暗く、船は東へ、西へ漂い何処へ着くか分かりませんでした. そのときはるかに火光がありその光を頼りに行きまして嶋浜に着きました. 是が隠岐の国の智夫郡でそこには人はいませんでした. ある人が言いますには、比奈麻治比売神は常に霊験があり、商人は海で漂流するときは必ず火光を揚げて是を頼りに全きを得るという. その数は数え切れないほどであり神の佑助なり、と.

同年 5月 29日, 遣新羅使を取りやめた.

同年 7月, 이달에 작은 배를 타고 三河国에 표착한 사람이 있었다. 布로써 背을 覆하고(犢鼻[とくび]=ふんどしとあるが) 子牛와 같은 鼻가 있고、袴는 身에 着하지 않고 左肩에서부터 紺布를 袈裟와 같이 걸쳤으니 年은 二十 정도이고、身長은 五尺五分、耳는 長 三寸 남짓하고 言語는 통하지 않아 이 나라 사람이 아니다. 大唐人 等은 그를 보고 모두 崑崙人이라 한다. 나중에 자못 中国語(日本語のこと) 를 배워서 自分은 天竺人이라 했다. いつも一弦琴を弾き、歌声は哀愁がある. 持ち物を調べると草の実に似たものあり. これは綿の種だという. その者の願いによって、川原寺に住まわし持ち物を売って西壁の外の道沿いに小屋を建てさせ、困窮した者を休ませた. 後に近江の国の国分寺に移り住んだ. (延暦19年4月12日に漂着した崑崙人がもたらした綿の種を紀伊、淡路、讃岐、伊予、土佐および大宰府の諸国に下賜し栽培させた、とある)

同年 9月 20日, 正六位上인 式部少録 滋野宿祢船代 等이 渤海国에서 돌아왔다. 船代が持ち帰った渤海国王の書状の要旨は次のとおり. 【秋も終わりに近づき涼しい風も吹き始めています. 送使は早く帰国したいと言っているので、廻帆を遅らせることなく思うように帰らせます. 送使を送る使いを遣わせるべきですが、まだその時期ではないのであえて同行させません. 】

 

巻九 桓武天皇

 

延暦19년(800) 6月 6日, 駿河国이 다음과 같이 아뢰었다. “지난 3月 14日부터 4月 18日까지 富士山 頂上이 噴火하고 낮에는 噴煙으로 주변이 어둡고 밤에는 火光이 하늘을 비추어 밝게 합니다. 噴火하는 폭발음은 뇌성과 같고 비와 같이 재가 떨어지며 山의 ふもとの川の水은 모두 붉은 색으로 변했습니다.”

延暦 21年(802) 正月 8日, 天皇이 다음과 같이 詔했다. “駿河・相模両国が駿河国の富士山が昼夜を分かたずあかあかと焼け、霰のような砂礫を降らしている、と言ってきた. これを占って見ると、日照りと疫病の兆しだという. 両国に命じて神の怒りを宥めて読経を行い、災いを払うようにせよ」と.

 

延暦 20年(801) 5月 13日, 天皇이 다음과 같이 詔했다. 「諸国から調庸を京へ運ぶにあたり、川に橋がなく、津に舟がわずかしかなく、民を困らせている. そこで路次の国は今後永く、調庸を京へ運ぶ時期には渡河地点に舟や浮橋を置くようにせよ」と.

 

巻十 桓武天皇

(第十八次遣唐使派遣)

延暦20年(801) 8月10日 従四位の下の藤原葛野麻呂を遣唐大使に任じ、従五位の下石川道益を副使に任じた. 判官・録事に各四人を任じた. 延暦21(802) 年2月6日 天皇が神泉苑へ行幸した. 神泉に舟を浮かべて、曲宴を催した. 延暦22年(803) 2月4日 遣唐大使以下、水手以上の者に身分に応じて録を賜った.

 

巻十一 桓武天皇

延暦22年(803) 3月6日 天皇が次のように詔りした. 「入唐大使贈従二位藤原朝臣河清は先に朝廷の命を受けて唐国に遣わされ、帰途遭難して漂流し、異郷で死亡した. そこで正二位を贈ることとす. 河清は贈太政大臣房前の第四子で、本名を清河といい、唐で河清と改めていた. 天平勝宝4年に参議民部卿のまま遣唐大使に任じ、天宝12年に入唐留学生朝衡と同じ船で帰国の途に着いたが、航海中風に流され、安南(ベトナム) に漂着した. 天平宝字3年に散位助外従五位の下高元度を河清を迎えるため唐へ派遣したが、唐朝では反乱(安録山の乱) が起き、元度らは長い期間皇帝に謁見できなかった. 皇帝は「河清は唐国の貴族で、朕の厚く寵愛しているところである. そこでしばらく在留させ、帰国することを認めない. 唐国が安定するのを待って、使人を副えて帰国させようと思う. 元度らが長らく帰国しないと、日本の朝廷が怪しむことになろう. そこで、元度らは先に南路をとって帰国し、復命せよ」と勅した. このため河清は悲しみ、涙を流したのであった. 阿倍仲麻呂は唐朝において姓は朝氏、名は衡、字は、仲満を賜った. ‥中略‥、天宝12年に日本の遣唐使参議藤原清河と同船して海路帰国の途に着いたが、遭難して安南に漂着した. 安禄山が反乱し、群盗が蜂起した時期で乱れ、殺人が横行していた. 安南に漂着した者たちも170人が被害に遭い、生き残った者は10余人に過ぎなかった. ‥‥同年3月14日 遣唐使に身分に応じて彩帛を賜った. 同年3月18日 遣唐使等が朝堂院で天皇に挨拶をした. 正六位上の民部少丞斎部宿祢浜成等を新羅国に派遣することになった. 大唐国の情報を得るためである. 同年3月29日 遣唐大使藤原葛野麻呂、副使の石川道益に餞の宴を賜った. 宴の設営はすべて中国風で、酒宴がたけなわになると、天皇は藤原葛野麻呂をお側に呼んで酒を賜い、次の和歌を詠んだ. 『この酒は おおにはあらず たいらかに かえりきませと 斎いたる酒』 葛野麻呂は雨のように涙を流し、宴席に参列している群臣等もみな涙を流した. 葛野麻呂に天皇の着用する被を三領、天皇の着用する衣一かさね、金200両を、道益に天皇の着用する衣一かさね、金150両をそれぞれ賜った. 同年4月2日 遣唐大使四位上の藤原葛野麻呂、副使の従五位上の石川朝臣道益等が天皇に暇乞いをし、節刀を賜った. 同年4月23日 遣唐大使藤原葛野麻呂等が次のように言上した. 「今月14日に難波津で乗船し、16日に出航しました. 時に大雨と強風に襲われ、碇が機能せず、午後1時ころ風向きが変わり、船が壊れてしまいました. 明経請益大学助教の豊村家長は遂に水没して行方不明となり、他に溺れた者は数え切れないくらいです」と. そこで、右衛士少志日下三方を派遣して急いで調査を行い、詳細を報告させることにした. 同年4月25日 藤原葛野麻呂等が上表した. (内容は記録なし)同年4月28日 主典頭の藤原朝臣定嗣、造宮大工物部建麻呂等を派遣して遣唐使船と破損した物品を調査させた. 同年5月22日 遣唐使が節刀を返還した. 船が破損して渡海することができなくなったためである. 同年10月23日 最澄和尚が大宰府の竈門山寺で唐へ渡る四隻の遣唐使船が無事に着くことを祈願して栴檀で薬師仏四体を造った.

 

巻十二 桓武天皇

延暦 23年(804) 3月 5日, 遣唐使が拝朝した.

同年 3月25日 この日、遣唐大使従四位の上の藤原葛野麻呂、副使の従五位上の石川朝臣道益等両人を召して餞を賜った. 天皇は近くお側に呼ばれて懇ろなお言葉をかけられ特別に恩賜のお酒一杯と宝琴一面を賜った. くつろいだ中で音楽が演奏されみなそれぞれ身分に応じて物を賜った.

 同年 3月 28日 大使葛野麻呂が節刀を授かった.

同年 6月 27日, 勅あり. 「このところ渤海国の使者が来着が、多くは能登の国である. 定宿するところに粗相があってはならない. 早く客院を造るべし」と.

同年 9月 18日, 兵部少丞正六位上の大伴宿祢岑万里を新羅国へ遣わした. 太政官の書状に曰く. 「使いを唐国へ遣わして訪問させ大宰府にその消息を報告するように命じた. その時に順風が吹かなかったが遂に暑い夏が変わり、去る7月始め四船は海に入った. 二船は風に遭って漂流し、二船は未だどこへ行ったか審らかでない. 風勢からは新羅に漂着したかと考えられる. そこで、兵部少丞正六位上の大伴宿祢岑万里等を遣わして探させる. もし貴国に漂着しておれば事情に応じて必要な物資を支給し、帰国させて欲しい. もし、漂着していなければ願わくは使いを遣って唐に入り唐に入っていないか具に調査して知らせて欲しい」と.

(第十八次遣唐使船帰る) 延暦 24年(805) 6月8日 遣唐使第1船は對馬嶋下県郡に帰り泊まっています.  大使従四位の上の藤原葛野麻呂が奏上してきた. 「臣葛野麻呂等は去年7月6日肥前国松浦郡田浦より出発し、四船が海に入りました. 7日午後8時には第三船と第四船は火信途絶え死生の間を彷徨いました. 波濤の上を都合34日吹き流されて8月10日に福州の長渓県赤岸の南にある海口に鎭辿り着きました. 時に杜寧県令の胡延沂等が迎えてくれました. 常州の刹史柳冕は病気のため任を解かれ新任の除刹史はまだ来ていませんでした. 国は太平でした. そして州の道に向かいましたが山谷は険難にして荷物を担いで行くには困難で船を調達して州に向かいました. 10月3日州に到着. 新任の除観察使兼刹史閻済美の取り計らいで京に報告され23人が京に入ることになりました. 11月3日に臣・私は上京せんと出発しました. この州から京まで7520里、星を見て発ち、星を見て宿り(昼も夜も) 昼夜兼行で12月21日長楽駅に到り宿をとりました. 23日内使の趙忠が小さな馬23匹を引いて迎えに来ました. 併せて酒食で慰労されました. 馬に乗ってすぐに京城に入り外宅に安置され世話を受けました. 特別に監使(身の回りの世話をする者) がいて、それは高品の劉昂で接待所の担当役員でした. 第二船の判官菅原朝臣清公等27人は去る9月1日明州より京入りしました. 11月15日長安城に先に着き同じ接待所で待っていました. 24日には国信と朝貢品を監使の劉昂に託して天子に奉りました. 劉昂が帰ってきて天子の言葉を伝えました. 「卿等は遠方から当国を慕って朝貢をしにやってきた. 奉進の物は極めてよくできており朕は殊のほか慶んでいる. 卿等は時節柄寒いが心安く滞在されたい. 25日宣化殿において謁見の予定でしたが天子はお出ましにならず、同じ日鱗徳殿において対面できました. お願いしたことはすべて聞き届けられ内裏において宴が催されました. 官位と賞を身分に応じて賜りました. 又、別に中使(取次ぎの使者) がいて使院においても宴が設けられました. 一日中飲み楽しみました. 中使は絶えず優遇してくれました. 21年正月元旦含元殿において朝賀がありました. 二日は天子が病気を患い、23日天子雍王は亡くなられました. 御年64でした. 28日に私たちは亟天門において儀式に立ち会いました. 初めて素衣冠を着用しました. この日、順宗太子が皇帝の位におつきになりました. ‥‥帰国に当たって勅があり、内使の王国文を差し向けて送ってくれることになり、明州より出発することになりました. 3月29日越州の永寧駅に着きました. 越州は観察使の府です. 監使の王国文は私たちを駅館に呼んで勅書を手渡し、すぐに長安に戻りました. 替わりに越州は使いを差し向けて送ってくれることになりました. 管内の明州から出帆しました. 4月1日、これより先に去年11月明州に船を廻すため録事の山田大庭等を留めておりましたが去る2月5日に福州を発ち海路56日を経て、今日到着しました. 3日明州の城下に着き寺に安置されました. 5月18日州のさん県において両船はとも綱を解き海に出ました. 6月5日私たちの船は對馬嶋の下県郡阿禮村に着きました. (この後は省略するが、詳しく唐の情勢を報告している)

同年 6月 17日, 遣唐使第二船の判官正六位上の菅原朝臣清公が肥前国の松浦郡鹿島に帰りつきました.

同年 7月 1日, 遣唐大使従四位の上の藤原葛野麻呂が節刀を返上した. 同年7月 16日, 大宰府が申す. 「遣唐使第三船が今月4日肥前国松浦郡庇良嶋より遠値嘉嶋に向けて出帆しましたが、たちまち南風に遭い弧嶋に漂着しました. 船は暗礁に乗り上げ淦水が船内に満ち溢れました. 判官正六位上三棟朝臣今嗣等は身を脱して岩に取り付き官私のいろいろな積荷の流出を止めることができませんでした. 射手の数人が船上に残っていましたが、とも綱が切れて船は流されいずこへ行ったか分かりません」と. 勅あり. 「使者の使命は国信(国の書状) を預かることで任務は重大である. 船のものは人力でもって全うすべきである. しかるに、大事な任務にもかかわらず、いやしくも命を助からんとして、船は浮かんでるにもかかわらず、船上に人なく、一体どういうことであるか. 使いの道を奉りながらそれでよいというのか. 責任を問い厳しく罰すべきである」と.

同年7月22日 能登国が申す. 「船が一艘珠州郡に漂着しました」と. 使いを遣って船上の積荷を調べさせた.

同年7月25日 遣唐大使従四位の上の藤原葛野麻呂に従三位を、判官正六位上の菅原朝臣清公に従五位の下をにそれぞれ授けた. 死亡した副使従五位上の石川朝臣道益に従四位の下を、同じく死亡した判官の正六位の上の甘南備真人信影に従五位の下を、それぞれ遺贈した.

大同 元年(806) 正月 17日 唐国からの贈り物を諸山陵へ奉納した. 同年 正月 27日 唐国からの贈り物である綾、錦、香、薬等を参議以上の者に分かち与えた.

 

巻十八 嵯峨天皇

大同 4年(809) 10月 1日 渤海国が使いを遣わして朝貢した. 国王の書状が提出された.

同年12月4日 平城太上天皇が水路木津川を下り、双船に乗り平城旧京へ行幸された.

 

巻十九 嵯峨天皇

 

弘仁 元年(810) 4月1日, 渤海使 高南容 等을 鴻櫨館에서 饗応케 했다.

同年 4月 8日, 高南容 等이 帰国했다.

同年 5月 27日, 渤海使인 首領 高多仏이 脱走하여 越前国에 残留했다. 越中国에 살게 하고, 食料를 支給케 하며, 史生羽栗馬長과 習語生 等에게 多仏에게서 渤海語를 学習케 했다.

 

巻二十 嵯峨天皇

同年 9月 29日, 渤海国가 使를 遣하여 朝貢했다.(渤海国王의 書状 要旨는 “桓武天皇の崩御に対する弔意と嵯峨天皇の即位に対する祝意を伝えるために使者の南高容を遣わしますが、小さな船のために大海を渡るについて不慮のことも心配です. ついては使者が帰国する際に貴国の使者を同行させていただくように伏してお願いします”)

同年 12月 4日, 従六位上인 上林宿祢東人을 送渤海客使한테、大初位下인 上毛野公継를 禄事에 任命했다.

 

巻二十一 嵯峨天皇

弘仁 2年(811) 正月 22日, 渤海国使인 高南容이 귀국했다. (天皇の書状の要旨は、「渤海国は北の果てにありながら我が国によく誼みを通じていることは慶びであり、高南容が小さな船で危険を顧みず使命を果たした. 乗船する別の船を用意し送使を同行させて帰国させる」)

同年 4月27日, 渤海国使 正六位上の上林宿祢東人 等이 天皇に出発の挨拶をした. 衣を賜った.

同年 8月 12日, 大宰府が申す. “新羅人 金巴兄과 金乗弟、金小巴 등 3人이 ‘県に向けて穀物を運送中 海上에서 賊을 만나 仲間은 모두 水死했다. 다만 우리 3人만이 幸運스럽게도 天佑에 의해 御地에 漂着했다. 手厚いおもてなしを受けていますが国に帰りたい気持ちは例えようがありません. 今聞くところによりますと、漂着した者は送り返させる、ということです. どうか同じ船に乗せていただいて本国に一緒に帰れるように望みます’고 했다. 天皇이 이를 허락했다.

同年 10月 2日, 正六位上 上林宿祢東人 等이 渤海에서 귀국했다. 奏上하기를 “(渤海) 国王の書状は常例とは異なりましたので受け取らずに帰りました. また、禄事の大初位下の上毛野公継等が乗った第二船は出発の日より見失い、どこへ流されたのか未だに分かりません”라고 했다.

同年 12月 14日, 죽은 遣渤海禄事 大初位下인 上毛野公嗣에게 従六位下를 遺贈했다. 몸으로써 天皇의 使命을 위해 죽었기 때문이다.

 

巻二十二 嵯峨天皇

弘仁 3年(812) 正月 5日, 勅했다. “大宰府가 去年 12月 28日에 다음과 같이 아뢰었다. ‘對馬嶋의 보고에서는 【今月 66日 新羅船 3艘이 섬 서쪽 해안에 나타나 突然 一艘 船이 下県郡 佐須裏에 着岸했다. 船에는 10人이 있었지만 말이 통하지 않았다. 온 까닭도 알 수 없었다. 다른 2艘은 闇夜に消え去り 何処로 가려 했는지 알 수 없다. 7日에 20艘 船가 嶋 西海上에 나타났다. 灯火가 相連하고, 마침내 賊船임을 알게 되었다. 앞 5人은 죽이고, 5人은 取り逃がしました. 그 후 4人은 포로로 잡혔다. 곧바로 兵庫로 연락해 兵士를 발동했다. 또한 멀리 新羅를 望み見ますと、毎夜火光が到るところに見えて、これによって、恐れが止まらない】고 했으므로 그런 일을 調査하고자 新羅 通訳과 軍毅 等을 差し向けました. 旧例에 따라 要害를 守備해야 할 書状을 管内와 더불어 長門、石見、出雲 等에 告했습니다』고 했습니다. 報告가 있는 사정은 大事입니다. 그 허실의 상황을 引き続き奏上すべし. しかるに、年が変わっても何の報告もない. 要害の国は当然人兵を発動しているからまさに警備に疲れもあろう. いつ解除できるのかについて言上せよ. 怠ってはならない. また、事勢を考えるに恐れることはない. 出雲、石見、長門 等의 国에는 要害를 지키는 일을 停止케 했다.

同年 3月1日, 新羅人 청한파(清漢波) 등이 표착하므로 희망대로 돌려보냈다. 同年 6月3日, 사신을 보내어 攝津国에 長柄橋를 만들게 했다. 同年 6月5日, 사신을 보내어 大輪田の止まり를 수복케 했다. 同年 9月9日, 新羅人 유청(劉清) 등 10人에게 食料를 주어 帰国케 했다.

 

巻二十三 嵯峨天皇

弘仁 4年(813) 3月18日, 大宰府가 다음과 같이 아뢰었다. “肥前国使가 이달 4일에 알려온 바에 따르면 ‘新羅人 110人이 5척 배에 타고 小近島에 着岸하여, 島民과 싸워 島民이 新羅人 9人을 打殺하고 101人을 捕虜로 삼았다’고 했습니다. 또 이달 7日에는 ‘新羅人 一清 등이 清漢波 等(3월1일 표착했다)이 日本国에서 新羅国으로 귀국했다고 아뢰었습니다’고 합니다. 이 奏上에 대한 勅은 新羅人 등을 심문하고、귀국을 원하면 허가하고 귀화를 원하면 관례대로 처치케 하라”고 했다.

弘仁 5年(814) 5月 9日, 다음과 같이 제정케 했다. “新羅 王子가 내조할 때 만약 朝貢의 뜻이 있으면 渤海의 예에 준해서 처우케 한다. 다만 대등한 국교를 원하면 예로써 대우하지 말며 곧바로 귀국케 하라. 귀국할 때 필요한 식료는 지급하라.”

同年 9月 30日, 渤海国이 사신을 보내 朝貢하러 왔다.

同年 10月13日, 新羅 商人 31人이 長門国 豊浦郡에 漂着했다.

同年 10月 27日 大宰府が申す. 「新羅人の辛波古知等26人が筑前国の博多津に漂着しました. その来る理由を問い質しましたところ我が国の教化を慕い、帰化したいということでした.

弘仁5年(815) 正月元旦 天皇が大極殿にお出ましになり、朝賀を受けられた. 蕃客(渤海使) が列席した.

同年 正月7日, 五位以上인 자와 더불어 渤海使에게 주연을 베풀어 女楽이 연주되었다. 同年 正月20日, 朝集堂에서 王孝廉 等을 향응하고, 音楽을 연주하고 禄을 주었다.

同年 正月22日, 渤海国使인 王孝廉 等이 나라로 돌아갔다.(使者に持たせた天皇の書状の要旨は次のとおり. 「先王が亡くなったことを聞いて心が痛む. 鯨波を越えて代々良好な誼みを通じていることは良いことである. 前回の高南容等は要請により2艘の船を整えて林東仁(林宿祢東人) を同行させて送り返した. しかし、東仁は啓(汝の書状) を持ち帰らなかった. 理由は「啓」を「状」と変えていたからで、旧例に反している. この理由により(東仁は) 出発の日に棄てて受け取らなかったのである、として渤海国王の非礼を責めている. )

同年 正月30日, 對馬史生 一人を 廃止して 新羅通訳을 두었다.

同年2月18日 百済王 等이 朝貢했. 五位以上並びに六位以下と百済王等に身分に応じてそれぞれ禄を賜った.

同年 3月2日, 次のように定めた. 「蕃客(朝貢国)の使が入朝するときの客館の施設は常に牢固でなければならない. この頃、病人が寓居としたり、喪に服する者が隠れ所として垣根を壊したり庭や通路を穢している. 弾正台と京職は良く調べて取り締まらせよ」

同年 5月18日, 渤海国使 王孝廉 等이 海上에서 逆風을 만나 漂廻하고 船楫이 부러져 쓸 수 없었다.

同年 5月 23日, 越前国에 명하여 大船을 골라 蕃客(渤海使 等)을 태우게 했다. 同年 6月 14日, 渤海大使 従三位 王孝廉이 죽었다.(天皇이 弔意를 표시하고, 爵을 추증하고 禄을 추증했다.)

 

巻二十五 嵯峨天皇

弘仁 7年(817) 5月2日, 使いを遣わして 渤海 副使の 高景秀 以下 通訳 以上の者に 夏衣를 내렸다. 渤海国王한테 書状을 하사했다.(その要旨は 次のとおり. 「先王が俄かに亡くなったと聞いて、悲しみに耐えない. 長い間よい誼を通じている事を感心して心が慰められる. 去年孝廉等が帰国の途に着いたが逆風に遭って漂流し海岸に流れ着いた. 船が壊れ渡海できなくなったので更に1艘を建造したが、そのうちに孝廉は病を得て亡くなってしまった. 王昇基、釈仁貞も引き続いて死んでしまった. 副使の高景秀に書を托し送り帰らせる」)

同年 10月 13日, 大宰府가 아뢰기를 “新羅人 石珍 等 180人이 帰化해 왔다”고 하므로, 지시하기를 “時服と路次の間で 必要한 食料를 支給하고 幸便の船으로 入京케 하라”고 했다.

 

巻二十六 嵯峨天皇

弘仁 8年(818) 4月 22日, 大宰府가 아뢰기를 “新羅人 山知 等 144人이 帰化해 왔다”고 했다.

弘仁 9年(819) 9月 13日, 大宰府가 아뢰기를 “新羅人 張春 等 14人이 到来하여 騾馬 4頭를 献上했다”고 했다.

 

巻二十七 嵯峨天皇

弘仁 10年(820) 6月16日, 大唐 越州 사람인 周光翰과 言升則 等이 新羅船을 타고 到来했다.(唐国의 정세를 전했다.)

同年 11月20日, 渤海国이 사신을 보내 朝貢했다.(国王の書状の要旨は次のとおりである. 「前回の使者の慕感徳等が帰国し、陛下のありがたい取り扱いに感謝します. 今回は李承英を遣わして訪問させます」)

 

巻二十八 嵯峨天皇

弘仁 11年(821) 正月元旦, 天皇が大極殿にお出ましにな朝賀を受けられた. 百官の者達および渤海使節の朝賀も儀礼に則して行われた.

同年 正月 7日, 天皇が五位以上の者および渤海使節と豊楽殿で宴を催した.

同年 正月 21日, 天皇이 渤海国王에게 書状을 贈했다.(그 要旨는 다음과 같다. 그대의 啓(書面)는 잘 갖춰졌노라. 또한 앞선 사신인 慕感徳 等이 遭難을 만나 朕이 した行為について先のよい例にしたがって 사신을 보내 感謝를 표시한 너의 誠意를 깊이 よしとする. )

同年 正月 22日, 唐 越州人인 周光翰과 言升則 等이 帰国했다고 申し出たので 渤海使に随行させて帰らせることにした. 同年 2月 13日, 遠江、駿河에 이주케 한 新羅人 700人이 反乱을 일으켜 人民을 殺害하고 屋舎를 불태웠다. 両国에서는 兵士를 동원해 공격했지만 制圧할 수 없었다. 賊은 伊豆国 穀物을 탈취하여 船로서 海上으로 나아갔지만 相模、武蔵 等 7国이 兵士를 動員하여 力을 아울러서 追討한 結果、全員이 降伏했다.

同年 4月 27日, 唐人 李少貞 等 20人이 出羽国에 漂着했다.

同年 5月4日, 新羅人 李長行 等이 黒羊 2頭、代羊頭、ヤギ頭、鵞鳥 2羽를 奉進했다.

 

巻二十九 嵯峨天皇

弘仁 12年(822) 11月 13日, 渤海国이 사신을 보내 조공했다.(渤海国王의 書状은 要旨가 다음과 같다. “前回의 李承英이 帰国해서 天皇의 気持ちの돈독함을 感謝합니다. 今回은 王文矩 等을 보냅니다.)

弘仁 13年(823) 正月 元旦, 天皇이 大極殿으로 납시어 朝賀를 받았다. 渤海使 朝集使 등도 参列했다.

同年 正月 21日, (通常通り7日、16日20日に饗応を受けたりして) 王文矩 等이 帰国했다.(天皇의 書状은 よい誼を通じていることを良しとする内容であった)

同年7月17日, 新羅人 40人이 帰化했다.

 

巻三十一 淳和天皇

弘仁 14年(824) 11月 22日, 加賀国이 渤海国 入勤使 101人의 着岸을 알렸다.

同年 12月 8日, 渤海使를 慰問하는 使人을 停止시켰다. 大雪로 往還이 불가능했기 때문이다.

 

巻三十二 淳和天皇

天長 元年(824) 正月 5日, 渤海大使 以下 録事 以上 6人한테 冬 衣服領을 賜했다.

同年 4月 17日, 天皇이 越前国에서 進上한 渤海国의 贈物과 大使 高貞泰 等의 別貢物을 観覧했다.

同年 4月 2日, 渤海 副使 璋せん의 別貢物을 返却했다.

同年 5月 11日, 新羅人 辛良金貴、賀良水裸 4人을 陸奥国에 정착케 했다.

同年 5月 20日, (渤海)使節 等이 帰国할 때가 가까워졌으므로 (渤海)国王에게 禄을 하사하고 아울러 高貞泰에게도 物을 下賜케 하고 宴을 催케 했다.

天長 2年(825) 12月 3日, 隠岐国이 飛駅에서부터 渤海国使 高承祖 等 103人이 到着했다고 전했다.

 

巻三十四 淳和天皇

天長 3年(826) 3月 1日, 藤原朝臣緒嗣가 아뢰기를 “渤海使節의 入朝는 12年에 1度씩으로 定했지만, 今回은 그 約束을 파기하고 来朝했습니다. 使節의 入京을 停止하고, 到着한 隠岐国에서 帰国케 하소서”라고 했다. 이를 윤허하지 않았다.

同年 5月 8日, 渤海大使 高承祖 等이 入京했다. 鴻櫨館에 머물게 했다.

同年 5月 12日, 渤海国使 政堂信 少卿 高承祖에게 正三位를, 副使 高如岳에게 正四位上을, 判官 王文信과 高孝英 두 사람에게 正五位上를, 録事 高成仲과 陳崇彦 두 사람에게 従五位上를、訳語들인 李隆郎과 李承宗 두 사람에게는 従五位下를 제수했다. 六位 以下 11人에게도 叙位가 행해졌다.

同年 5月14日 渤海国使가 加賀国으로 돌아갔다. (渤海国王에게 贈한 書状 要旨는 礼儀を盛り込んだ丁重な内容이었다)

 

巻三十五 淳和天皇

天長4年(827) 7月12日 大地震があり多くの建物が倒れた. 一日のうちに大きな揺れが一度、小さな揺れが七、八度あった. この日以降、毎日のように地面が揺れたと記録されている. 7月は12日、8月は11日、9月は10日、10月は3日、11月は4日、12月は4日、天長5年は、2月が3日、3月は2日、6月は2日、10月は3日でようやく落ち着いたようだ.

 

巻三十六 淳和天皇

天長 5年(828) 正月 17日, 但馬国が飛駅で渤海国の人100余人が来着したと伝えてきた. 同年 4月28日 渤海使節大使以下梢工以上の者に絹、綿を身分に応じて賜った.

この後、巻四十まで船の記録はない.  

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