거요요편(車遙遙篇) 부현(傅玄)
출전 : 《옥대신영玉臺新詠》 卷九
작자 傅玄(217~278)에 대해서는 晉書 卷47 列傳 第17에는 그의 傳記가 그의 아들 부함(傅鹹), 부함의 아들 부부(傅敷), 부함의 종부제(從父弟) 부지(傅祗)와 함께 合傳되어 있다. 傅玄의 진서 열전은 밑에다가 첨부한다.
車遙遙兮馬洋洋 수레 아득아득 말은 느릿느릿
追思君兮不可忘 당신 그리며 잊을 수 없네요
君安遊兮西入秦 당신 왜 떠나 서쪽 진으로 가셨나요
願爲影兮隨君身 그림자 되어 당신 따르고 싶건만
君在陰兮影不見 당신 그늘에 계시니 그림잔 보이지 않네요
君依光兮妾所願 당신 햇볕에 서소서 첩은 바랍니다
傅玄列傳(出自《晉書》)
傅玄, 字休奕, 北地泥陽人也. 祖燮, 漢漢陽太守. 父幹, 魏扶風太守. 玄少孤貧, 博學善屬文, 解鐘律. 性剛勁亮直, 不能容人之短. 郡上計吏再舉孝廉, 太尉辟, 皆不就. 州舉秀才, 除郞中, 與東海繆施俱以時譽選入著作, 撰集魏書. 後參安東ㆍ衛軍軍事, 轉溫令, 再遷弘農太守, 領典農校尉. 所居稱職, 數上書陳便宜, 多所匡正. 五等建, 封鶉觚男. 武帝爲晉王, 以玄爲散騎常侍. 及受禪, 進爵爲子, 加附馬都尉.
帝初即位, 廣納直言, 開不諱之路, 玄及散騎常侍皇甫陶共掌諫職. 玄上疏曰:「臣聞先王之臨天下也, 明其大敎, 長其義節. 道化隆於上, 清議行於下, 上下相奉, 人懷義心. 亡秦蕩滅先王之制, 以法術相禦, 而義心亡矣. 近者魏武好法術, 而天下貴刑名;魏文慕通達, 而天下賤守節. 其後綱維不攝, 而虛無放誕之論盈於朝野, 使天下無複清議, 而亡秦之病復發於今. 陛下聖德, 龍興受禪, 弘堯ㆍ舜之化, 開正直之路, 體夏禹之至儉, 綜殷周之典文, 臣詠歎而已, 將又奚言!惟未舉清遠有禮之臣, 以敦風節;未退虛鄙, 以懲不恪, 臣是以猶敢有言.」詔報曰:「舉清遠有禮之臣者, 此尤今之要也.」乃使玄草詔進之. 玄複上疏曰:
臣聞舜舉五臣, 無爲而化, 用人得其要也. 天下群司猥多, 不可不審得其人也. 不得其人, 一日則損不貲, 況積日乎!典謨曰「無曠庶官」, 言職之不可久廢也. 諸有疾病滿百日不差, 宜令去職, 優其禮秩而寵存之, 既差而後更用. 臣不廢職於朝, 國無曠官之累, 此王政之急也.
臣聞先王分士農工商以經國制事, 各一其業而殊其務. 自士已上子弟, 爲之立太學以敎之, 選明師以訓之, 各隨其才優劣而授用之. 農以豐其食, 工以足其器, 商賈以通其貨. 故雖天下之大, 兆庶之衆, 無有一人遊手. 分數之法, 周備如此. 漢ㆍ魏不定其分, 百官子弟不修經藝而務交遊, 未知蒞事而坐享天祿;農工之業多廢, 或逐淫利而離其事;徒系名於太學, 然不聞先王之風. 今聖明之政資始, 而漢ㆍ魏之失未改, 散官衆而學校未設, 遊手多而親農者少, 工器不盡其宜. 臣以爲亟定其制, 通計天下若干人爲士, 足以副在官之吏;若干人爲農, 三年足有一年之儲;若干人爲工, 足其器用;若干人爲商賈, 足以通貨而已. 尊儒尙學, 貴農賤商, 此皆事業之要務也.
前皇甫陶上事, 欲令賜拜散官皆課使親耕, 天下享足食之利. 禹ㆍ稷躬稼, 祚流後世, 是以《明堂》ㆍ《月令》著帝藉之制. 伊尹古之名臣, 耕於有莘;晏嬰齊之大夫, 避莊公之難, 亦耕於海濱. 昔者聖帝明王, 賢佐俊士, 皆嘗從事於農矣. 王人賜官, 冗散無事者, 不督使學, 則當使耕, 無緣放之使坐食百姓也. 今文武之官既衆, 而拜賜不在職者又多, 加以服役爲兵, 不得耕稼, 當農者之半, 南麵食祿者參倍於前. 使冗散之官農, 而收其租稅, 家得其實, 而天下之穀可以無乏矣. 夫家足食, 爲子則孝, 爲父則慈, 爲兄則友, 爲弟則悌. 天下足食, 則仁義之敎可不令而行也. 爲政之要, 計人而置官, 分人而授事, 士農工商之分不可斯須廢也. 若未能精其防制, 計天下文武之官足爲副貳者使學, 其餘皆歸之於農. 若百工商賈有長者, 亦皆歸之於農. 務農若此, 何有不贍乎! 《虞書》曰:「三載考績, 三考黜陟幽明.」 是爲九年之後乃有遷敘也. 故居官久, 則念立慎終之化, 居不見久, 則競爲一切之政. 六年之限, 日月淺近, 不周黜陟. 陶之所上, 義合古制.
夫儒學者, 王敎之首也. 尊其道, 貴其業, 重其選, 猶恐化之不崇;忽而不以爲急, 臣懼日有陵遲而不覺也. 仲尼有言:「人能弘道, 非道弘人.」 然則尊其道者, 非惟尊其書而已, 尊其人之謂也. 貴其業者, 不妄敎非其人也. 重其選者, 不妄用非其人也. 若此, 而學校之綱舉矣.
書奏, 帝下詔曰:「二常侍懇懇於所論, 可謂乃心欲佐益時事者也. 而主者率以常制裁之, 豈得不使發憤耶! 二常侍所論, 或擧其大較而未備其條目, 亦可便令作之, 然後主者八坐廣共研精. 凡關言於人主, 人臣之所至難. 而人主若不能虛心聽納, 自古忠臣直士之所慷慨, 至使杜口結舌. 每念於此, 未嘗不歎息也. 故前詔敢有直言, 勿有所距, 庶幾得以發懞補過, 獲保高位. 苟言有偏善, 情在忠益, 雖文辭有謬誤, 言語有失得, 皆當曠然恕之. 古人猶不拒誹謗, 況皆善意在可採錄乎!近者孔晁ㆍ綦毋<龠禾>皆案以輕慢之罪, 所以皆原, 欲使四海知區區之朝無諱言之忌也.」 俄遷侍中.
初, 玄進皇甫陶, 及入而抵, 玄以事與陶爭, 言喧嘩, 爲有司所奏, 二人竟坐免官. 泰始四年, 以爲禦史中丞. 時頗有水旱之災, 玄複上疏曰:
臣聞聖帝明王受命, 天時未必無災, 是以堯有九年之水, 湯有七年之旱, 惟能濟之以人事耳. 故洪水滔天而免沈溺, 野無生草而不困匱. 伏惟陛下聖德欽明, 時小水旱, 人未大饑, 下祗畏之詔, 求極意之言, 同禹ㆍ湯之罪己, 侔周文之夕惕. 臣伏歡喜, 上便宜五事:
其一曰, 耕夫務多種而耕不熟, 徒喪功力而無收. 又舊兵持官牛者, 官得六分, 士得四分;自持私牛者, 與官中分, 施行來久, 衆心安之. 今一朝減持官牛者, 官得八分, 士得二分;持私牛及無牛者, 官得七分, 士得三分, 人失其所, 必不歡樂. 臣愚以爲宜佃兵持官牛者與四分, 持私牛與官中分, 則天下兵作歡然悅樂, 愛惜成穀, 無有損棄之憂.
其二曰, 以二千石雖奉務農之詔, 猶不勤心以盡地利. 昔漢氏以墾田不實, 征殺二千石以十數. 臣愚以爲宜申漢氏舊典, 以警戒天下郡縣, 皆以死刑督之.
其三曰, 以魏初未留意於水事, 先帝統百揆, 分河堤爲四部, 並本凡五謁者, 以水功至大, 與農事並興, 非一人所周故也. 今謁者一人之力, 行天下諸水, 無時得遍. 伏見河堤謁者車誼不知水勢, 轉爲他職, 更選知水者代之. 可分爲五部, 使各精其方宜.
其四曰, 古以步百爲畝, 今以二百四十步爲一畝, 所覺過倍. 近魏初課田, 不務多其頃畝, 但務修其功力, 故白田收至十余斛, 水田收數十斛. 自頃以來, 日增田頃畝之課, 而田兵益甚, 功不能修理, 至畝數斛已還, 或不足以償種. 非與曩時異天地, 橫遇災害也, 其病正在於務多頃畝而功不修耳. 竊見河堤謁者石恢甚精練水事及田事, 知其利害, 乞中書召恢, 委曲問其得失, 必有所補益.
其五曰, 臣以爲胡夷獸心, 不與華同, 鮮卑最甚. 本鄧艾苟欲取一時之利, 不慮後患, 使鮮卑數萬散居人間, 此必爲害之勢也. 秦州刺史胡烈素有恩信於西方, 今烈往, 諸胡雖已無惡, 必且消弭, 然獸心難保, 不必其可久安也. 若後有動釁, 烈計能制之. 惟恐胡虜適困於討擊, 便能東入安定, 西赴武威, 外名爲降, 可動複動. 此二郡非烈所制, 則惡胡東西有窟穴浮游之地, 故複爲患, 無以禁之也. 宜更置一郡於高平川, 因安定西州都尉募樂徙民, 重其複除以充之, 以通北道, 漸以實邊. 詳議此二郡及新置郡, 皆使並屬秦州, 令烈得專禦邊之宜.
詔曰:「得所陳便宜, 言農事得失及水官興廢, 又安邊禦胡政事寬猛之宜, 申省周備, 一二具之, 此誠爲國大本, 當今急務也. 如所論皆善, 深知乃心, 廣思諸宜, 動靜以聞也.」
五年, 遷太僕. 時比年不登, 羌胡擾邊, 詔公卿會議. 玄應對所問, 陳事切直, 雖不盡施行, 而常見優容. 轉司隸校尉.
獻皇后崩於弘訓宮, 設喪位. 舊制, 司隸於端門外坐, 在諸卿上, 絶席. 其入殿, 按本品秩在諸卿下, 以次坐, 不絶席. 而謁者以弘訓宮爲殿內, 制玄位在卿下. 玄恚怒, 厲聲色而責謁者. 謁者妄稱尙書所處, 玄對百僚而罵尙書以下. 禦史中丞庾純奏玄不敬, 玄又自表不以實, 坐免官. 然玄天性峻急, 不能有所容;每有奏劾, 或値日暮, 捧白簡, 整簪帶, 竦踴不寐, 坐而待旦. 於是貴遊懾伏, 台閣生風. 尋卒於家, 時年六十二, 諡曰剛.
玄少時避難於河內, 專心誦學, 後雖顯貴, 而著述不廢. 撰論經國九流及三史故事, 評斷得失, 各爲區例, 名爲《傅子》, 爲內ㆍ外ㆍ中篇, 凡有四部ㆍ六錄, 合百四十首, 數十萬言, 並文集百余卷行於世. 玄初作內篇成, 子咸以示司空王沈. 沈與玄書曰:「省足下所著書, 言富理濟, 經綸政體, 存重儒敎, 足以塞楊ㆍ墨之流遁, 齊孫ㆍ孟於往代. 每開卷, 未嘗不歎息也. '不見賈生, 自以過之, 乃今不及', 信矣!」
其後追封清泉侯. 子鹹嗣.
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